「きものという農業」という本が(タイトルからもう完璧に好きですが)
とても面白かったので、ご紹介します。
筆者の中谷比佐子さんは風水やオーマソーラを行っており中野裕弓さんと共著もあるくらいなので随所にスピリチュアルな目線が入って来ます。
古文書「秀真政伝紀(ほつまつたゑ)(というワードが出て来ることがそもそもすごい)に
『機(はた)の道は人の道』という一文があるそうです。
経糸は人の生きる道、緯糸は人との和。つまり「機織り」という行為は日本人の心の原点であり、それに使用する糸は尊い人がまず育てるべきである。ふむふむ〜納得。
絹にはじまり、麻、綿ときものの素材の話は続きます。
絹糸をつくる蚕は蛹も糞も捨てる所はひとつもなく命をまっとうする。しかしやはり国産の絹糸は質が良いが、扱いにくい。
発展途上国の養蚕は人件費が安くベルトコンベアー式に育てているので粗雑ではあるが多量に生産出来るので価格競争には太刀打ち出来ない。しかも平成9年に国が養蚕家の補助金(輸入品との差額を補助)をカットしたため養蚕農家、製糸業はバタバタと仕事を閉じて行った。それでも、桑の木のオーナー制を提案したり近所の小学生と蚕を飼って命の大切さ、植物の力、天地の恵みを教えて行ったり養蚕から染色、織り上げまでを行い地域オリジナルブランドの絹を作りあげたりと、努力を続け広げている方々も居る。(皇室でも純国産の「小石丸」という蚕を飼い続けている。)麻については、大麻のことは触れつつも実際の栽培の話は残念ながら苧麻なのですが、大麻についての歴史や解説もありました。
GHQが大麻栽培を禁止した理由は諸説あるが日本人の精神性を一掃したかったから日本に神道をないがしろにし、日本の文化を否定するのが目的ではないか八百万の神として自然に存在するものを崇拝する日本人は
唯一神を信じる民からすると恐ろしいものだったのかもしれません。
そしてなんと自給率0%の綿。
綿には新大陸系(アメリカ、エジプトなど)と旧大陸系(日本、アジア)があり、全世界の8割強が新大陸系。新大陸系は虫がつきやすいため農薬が必需品、作付け面積が広く枯れ葉剤を使用する旧大陸系は農薬の必要が無く環境汚染の問題も無いが、既に絶滅危惧種。ちなみに旧大陸系と新大陸系は染色体の数が違うので交配は出来ない。イギリス産業革命時に機織りが機械化、糸紡ぎも紡績機になり原料の生産を追いつけるために生産地で輸入元でもあるアメリカ南部にアフリカから5000万人の若者を運び奴隷として労働させた。そして植民地であるインドでは最高級の綿製品が作られていた。当初はインド綿を輸入しインドの国内手作業を保護していたが、自国にもインドにも紡績工場を設置し、紡ぎ手織り手の仕事は無くなり農地は荒れてゆき、優れた職人は働けないよう手首を切られたり目を潰されたりしてインドの手工業としての綿織物は潰滅された。ガ ンジーは自分たちの手を使った労働に戻ろう、生活に必要なものはすべて国内で作ろうと綿の栽培、綿織物の推奨を独立運動の柱に据え実際に自らチャルカとい う糸車を使い綿を紡ぎ、それを織って手紡ぎ・手織りの布(カディー)にしその姿で人々に労働の尊さ徳性のある知性を説いた。しかし、ガンジーの暗殺後もま すます機械尊重、大量生産の陰で貧富の差が国単位で広がっている。残念ながら、日本でも同じような歴史があります。
日本でも自分の着物や寝具をコツコツと作り大切な財産として何代も受け継がれていたが「富国強兵・殖産興業」という国策にようり機械化が進み、各自、各家、各村での自給から大量消費大量生産のため安い中国産を輸入するようになった。たくさんの優秀な機械が作られ大量の製品を生み出すようになると各国は原材料の確保、市場の奪い合いで利害が対立し、新たな争いがおこる。そしていまや石油製品である化学繊維が全盛になり日本で生産する綿はなくなった(綿の自給率0%)そして、糸に色をつける草木染め。
もう言わずもがなだけれども
「化学」染料のほうが大量に同じもの(安定した色)を出せます。
商品としても価値があります。
でも、絹糸を化学染料で染めるには苛性ソーダでたんぱく質であるセリシンを取り除かねばならず、そうなると糸の柔らかさは無くなり、手での織が難しくなり、結局動力機でしか織れなくなるのです。
どこかで手を抜くと最後まで手では作れなくなる、ということです。
草木染めは人間の知力体力、五感をフルに使って行われ、一切の無駄がありません。
早く要領良く手順通り頭を使って知恵を出し体を無駄無く動かして糸を染め、洗い、乾かし、また染め、洗う、乾かすの動作を続ける。糸を乾かしている間に木を燃やし灰汁づくり、紅花の種取り、藍の葉を摘み干す。太陽が沈む前に全ての作業を終了しておかないと「湿気」で何もかもダメになってしまう。灰汁は桜と欅を燃やし、白い灰を作る。そして灰に水を入れ、灰汁を作る。糸には上澄みを使うので、灰汁が沈殿するのを待つ。沈殿したものは陶芸家に分け、焼き物に使われる。この灰を土にかえせば肥料にもなる。経営・経済という考え方ではなんと無駄が多いかと思うかもしれない。天の愛、地の慈悲、植物の喜びが反物にあるとしたら、それを手に入れ肌につけることの出来る女性は天地の宝を身にまとうことと同じ。本来、きものというのはそういう完成のものかもしれない。「安いものは所詮それだけの価値の物、高くても品質の良い物を」
食べ物にはそういう思想で選べるようになりましたが…
身にまとうものも同じ、とはいえ実際ウン十万もする着物を「それ、くださいな」とは買えるわけではありません
でも。。。。
やはり安い「だけ」の某激安店の衣類を買って一年も持たずに捨てるなんてことを考えると
この先ずーっと着ていられるきものを少しずつでも増やすつもりでいたいなぁ。。
裁断で一ミリの布も捨てない直接裁ちが2,000年以上も続いている和裁の技術 も、忘れちゃなりません。
きものはきものとして役目が終わっても、布団になり風呂敷になり、おむつになり、ぞうきんになり最後には土に還ります。
そこには「命をまっとうさせる」日本人の骨幹思想 が詰まっていると思うのです。
そして、「きもの」と「農業」。。。
石油を知らなかった日本人は人の生活は食糧・衣類・建材・肥料のすべてを植物でまかなっていた。植物の循環を生活の基礎に据え、植物からいろんなことを学んで来た。石油が発見され植物でしか作られないと思ったものが石油で生産され手軽で安価、労力はいらないということになった。絹を失くす、麻を失くす、綿を失くすということは、おおげさではなく、日本を失くすことでもある。「食」の自給に目覚め始めた人は多いが、「衣」の自給もまた、ぬきさしならぬ状況である。絹、麻は輸入率95%、綿は100%。着物は養蚕、桑を育てる、麻や和棉を植える、草木から染料を採るなど土と深いかかわりがある。「きもの」の普及と「循環型思想の農業」の確立は深い関係にあるのだ。私にとっては大麻は「日本古来のものである」ということが重要なのであって
輸入のヘンプで着物を作りましょう、にはなりません。
全く別のものだからです。
大麻は大地を「いやしろ地」にすると言われています。
大麻の根そのものが浄化のエネルギーを持っていて、根から吸い上げた地球のエネルギーを幹や葉や実に蓄えている植物だということ、
それを食べる、身につけることはそれこそ地球の、宇宙の恩恵を全身で受けるということでもあります。
昔の日本人はそうして大麻を生活の一部として一緒に生きて来たのです。
私はそれを取り戻したいだけです。
外国で育ったものや新しく発見されたものを解禁しろというのではありません。
昔の生活を返して欲しい、それだけなのです。
(ちなみに私はどんなに良いとされていても日本に生息していない動植物は積極的には取り入れません)
『自分たちの生活に必要なものは自らの手足を使って手に入れることが大切』ゆきはなの手作り精神もここにあります。
大量消費、大量生産を選び続けたら、いつか本物は消えてしまうでしょう。
わたしは本物だけを選び続けたいし
作り続けたいと思っています。
[2回]
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